さぽカフェ、2回目のゲストは、阿武町在住の白松博之さん。
車いす生活となったのを機に、山口県初の農家民宿「樵屋(きこりや)」を始めたり、自然や文化、暮らしを伝える場「(有)あったか村」を設立。移住希望者のための阿武町定住アドバイザーも務めるなど、地元の人と共に「田舎の良さ」を活かしながら、地域おこしや田舎と都会に住む人々との交流に奮闘している白松さんに、その時々のターニングポイントや思いを話していただきました。
■ターニングポイント・事故
14年前、8~9メートルの高さから転落し、車いす生活になった白松さん。
脊椎はつぶれ、腰椎は飛び出すという大きな事故でした。
それまで、県下で2~3番目ほどの規模の農業と、林業にも携わっていました。
それが、突然ゼロに。芋虫以下だった、と言います。
感覚がない、寝返りもうてないという現実のなか、生きているのがつらい時期もありました。窓まで歩いていけるなら飛び降りたい、と思うことも――。
そんな時期が、一週間~10日間ぐらい続いた後、「なんで転落したのに、まだ生きてるんだろう?」と思うようになりました。
自分にあるものは、ありあまる時間だ。
その中で、なにができるか?
寝返りをうつこと、車いすにのること、トイレにいくこと。
できることを探して、ひとつひとつ挑戦していったのです。
そんなとき、買ってきてもらったパソコンの本。
それは、html言語の辞書でした。
ありあまる時間のなか、毎日1ページずつ覚えていきました。
6割読み進めたとき、ベッドに起き上がることができました。
病院にパソコンを持ち込み、「緑の森からの宅配便」というホームページを作成。
このホームページを通して、いろいろな情報をもらえるようになりました。
「自分は強い人間ではない。むしろ、弱い人間です。
将来どうしよう?と考えたとき、これほどさみしい人生はないと思いました。
だから、先のことは考えないことにしよう。明日が忙しければいい、と思うようにしたのです。
できること探しに挑戦するおもしろさも感じていました。
好きで障害者になったわけではないが、せっかくなったのだから、いろんなことに挑戦しよう、という姿勢に変わって行ったのです」
■つぎのポイント・地域を考える
いまでも、農業は続いています。6~7トンを出荷する白菜づくりは、ご長男が手伝ってくれています。トラクターもユンボも、片手でのれるようになりました。
それから、どうやったら地域が楽しくなるか?と考えました。
そのためには、自分たちが楽しくなければいけない!
現在、阿武町にはIターン、Jターン、Uターンで移住してくる方が、毎月1家族はあるそうです。
外からきた人ばっかりだと崩壊します。地元の人と歩調を合わせていくことが必要。その橋渡しがわたし
これまでやってきたことが、実を結びつつあるのでしょうか。
●やってきたこと
○むらまち交流
30数年前から始まったもの。
まちの人に、阿武町のことを知ってもらおう。知ってもらったら、つぎに、滞在してもらうにはどうすればいいのか?
交流から滞在、定住に持っていきたい!
○あったか村づくり(後半でくわしく)
○空き家バンク
移住したい人に空き家を紹介。いまは、空き家がなくて四苦八苦。
○起業支援
雇用支援ではなく、人的支援ネットワーク。
つながることで、まちへ入ってきた人たち(いろいろな職種の方がいる。たとえば、元競輪選手、デザイナーなど)に、外から見た目線で、まちのよいとこ悪いとこを教えてもらおう。
○農家民宿
ご自宅を活用して、県内初である農家民宿 樵屋を開業。
「まっくらやみはすばらしい財産です。ホタルも、夜光虫も見えます。
いくら騒いでも、迷惑かからない環境です。
お客さんにはよく“ばあちゃんちに帰ったみたい”と言われます。
交流の中で、地元の魅力をお客さんからどう聞きだすかが大切なことです」
○JICA研修プログラム。
はじめて5年。いろいろな国の方が阿武町に来て、いろいろな情報を提供してくれています。
訪れる人と地域、双方が学べるプログラム作りを考えています。
料理交流などでは、地元のおばちゃんたちが、外国の人にどうすれば説明できるか、一生懸命考えてくれたそうです。
訪れる人から、地域がどのように学びとるかということが重要。
「役を与えられることにより、人は成長します。
外からの目線で見てくれることは財産です。
町民4000人の阿武町では、合併しなかったことで、自分たちががんばらねばと思っています。
町長をなかしちゃいけんから、心痛かけちゃいけんから、自分たちのまちは自分たちで守らんと、という思いでいるのです」
■あったか村のこと
“山村と農地を丸ごとかりて、新しい村をつくろう”
2002年に始まった、あったか村づくりの目指すところは、「暮らしに生かす自然素材・自然エネルギーを大切にしよう、活用しよう」というもの。
人の健康・地域の健康・地球の健康を考えて、シックハウスなどの化学物質過敏症の方も暮らせる村づくりです。
森の中で開催したジャズコンサートは、出演者も観客も感動する、すばらしいコンサートになったそうです。
そんなふうに、使い方とアイデアで、価値のあるものになると白松さんは言います。
自然循環型トイレなども開発されました。
やって来た人と交流することで、新しい商品が生まれていきます。
白松さんの、できること探しからはじまった、あったか村。
誰がまちと田舎の橋渡しをするのか?それはわたしの役目だ、という思いもありました。
関わってくれる方たちが、第2のふるさとと思ってくれればいい。
時を経て、村づくりは動いてきています。
■樵屋のこと、まちのこと。
県内初の農家民宿。
これも、なにかに挑戦したいという思いからはじめたこと。
「けがをする前、秋の収穫が終わると、毎年家族旅行に行っていました。
一泊はキャンピングカー、一泊は民宿に泊まるという旅です。
そのころはなにも言わなかったのですが、子どもが結婚式で言ってくれました。
親父たちのやってくれた家族旅行を、自分も子どもにやってやりたい。
幸せにもなって、成長させてもらいました。町の中でも生かされています。
合併しなかったから、みんなががんばる気持ちになれたと思います。それが、外から見ると、魅力のある阿武町になったのかもしれません。
お互いがお互いの顔が見える関係。
これが、一番元気な行政単位ではないかと思います」
■メッセージ
挑戦するおもしろさを感じてほしい。
「どうせ」は捨てて、「まだわたしだって」と思ってほしい。
「もうこんな年だから」ではなく、「この年になったからこそ」と思ってほしい。
自分もこの年だったから、待つ時間が大切だとわかりました。
若いころだったら、つっぱしって誰からも理解されなかったかもしれません。
できること探しを、してほしいと思います。
■カフェタイム&交流会
白松さんが作ってきてくださった料理が並びます。
普段、樵屋で出しているメニューです。どれも、地元で食べてほしい、地元で食べてこそおいしい、というのが本音。だから、本当はもってきたくなかったという料理たちです。
料理をいただきながら、参加者のみなさんに、自己紹介と合わせて、感想や質問をお聞きしました。さまざまな分野の方が、県内各地から集まっていたことに驚きました。
「車いすで、不自由ではないですか?」という質問の答えが印象的でした。
「どこまでを不自由と思うのかということ。なったからこそ、その目線になって、ほかの障害者が甘えた行動をしていれば叱ることができます。せっかくなったので、チャンスと思わなければ。これは、今回一番言いたかったことなんです」
気になった言葉たち。
「自分たちのところを、どう好きになれるか」
「だれかが言い始めないと、前に進めません」
「外からきた人ばっかりだと崩壊します。地元の人と歩調を合わせていくことが必要。その橋渡しがわたし」
どれもグッと、心にしみます。
■感想
あっという間の2時間でした。
白松さんのメッセージが、心に強く残っています。
「こんな形で話すのは慣れてないので…」と前置きされていた白松さんですが、とんでもない!
わかりやすくて、元気になれるお話に、聞き惚れてしまいました。
「できること探し」をみんなが始めたら、とってもすごいことになりそうです。
いまいる場所で、きっとわたしにもできるなにかがあるはず。
改めて、前を向いて、顔をあげて精一杯歩いていこうと思えた一日でした。
市民広報記者・かきたとも